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らなん

『天気の子』を観て『ペンギン・ハイウェイ』と比べたくなった

まず、このコラムは映画「天気の子(2019)」と「ペンギンハイウェイ(2018)」のネタバレをがっつり含んでいます。天気の子を見てない人は今すぐ映画館に行ってください。ペンギンハイウェイを見てない人は今すぐみてください。どっちも見てない人はペンギンハイウェイを見たあと天気の子を見てください。



 8/9、帰省のバスに乗る前に新宿で映画「天気の子」を見た。

自分は結論から言われないと話に集中できないタイプなので、ここでも結論から言う。「死ぬほど良かった」

 これから先、自分は『天気の子』の感想を聞かれるたび、「よかったよ」とか、「自分は好きだよ」とか答えると思うけども、本当は心の中で、服を脱いで全裸になって「百億万点!百億万点!」と叫びながら河川敷を全力疾走する自分がいると思う。



 この映画についての評価は多くのところでされている。作品に対する感想が人それぞれなのは当たり前だというのが自分の信条です。故にこの記事も、今の自分だからかける感想を残したい(というか書かずにはいられない)という気持ちで書きます。



~『天気の子』を観て

まず、この映画を観ているときに何度も「これ、オタクが見るやつじゃん」と思った。いわゆる「セカイ系」のストーリー、および設定だったからである。「セカイ系」という言葉を初めて知った人、聞いたことがないという人はWikipediaで検索してほしい。この辺りは、Twitterで流れてきたこの記事を読んでもらえるとわかりやすいと思う。このコラム自体、この方の記事ありきなところがある。これを読んでもさっぱり、という人も「まあそういう感想もあるんだ」という気持ちで見てもらいたい。


 極め付きは、ホダカがK&Aで最初の仕事をした時の感想で言った、「ラノベのような設定」と言う言葉。晴れの天気と稲荷神、雨と龍神(水神)、そしてその操作と代償の話である。「狐の嫁入り」と言う現象、水と深く関係が見られる龍神伝説をかんがえると、あの占い師(cv野沢雅子)の話はわりと一般的なものである。この話はそのまま「天気の子」の根本部分とつながってくるので、いわばこの作品の設定も「ラノベのようなものである」と言っていたのかもしれない。

 前作の前前前世で大ヒットし、今回も多くの非オタク的な人が身に来ると予想される映画でこの内容を書いた新海誠を、自分は本当に尊敬するし、かなり好感度を持ってしまった。



〜『ペンギン・ハイウェイ』について

 これを読んでくれてる人は『ペンギン・ハイウェイ』をすでに観ているという前提でいるので、概要等は省いてしまおうと思う。個人的にもあの映画は大好きで、お姉さんの言った「人は巡り巡って、いつかは元の場所に帰る」という言葉が今も忘れられない(一言一句覚えてるわけではないけど)。この作品もある種「セカイ系」のストーリーに近いと言えるが、最後の結末や鮮やかな世界観のせいか観ているときはあまり感じなかった。



~走れホダカ、走れアオヤマ

 『天気の子』と『ペンギンハイウェイ』、どちらも個人的にはかなり好きな作品で、またこうして気軽に比べるものでもないことは重々承知である。しかし、「天気の子」のラストシーン、代々木の廃ビルに向かうホダカにむかって夏美さんが放ったセリフ、「走れホダカーっ!」。このセリフを聞いて『ペンギン・ハイウェイ』を比較に出さずにいられるだろうか、いや、できない。

 ここからは『天気の子』を『ペンギン・ハイウェイ』と比較することで、『天気の子』という作品をもう一度とらえてみたいと思う。

 まず、ヒロイン2人の使命と気持ちについて見てみたい。セカイ系の作品では重要なところである。まず、ペンギンハイウェイのお姉さん、彼女は世界の綻びを修復するために生まれ落ちた存在であり、その使命が果たされれば消えてしまう運命だった。しかし、アオヤマ少年と出会いその使命に迷いを持った彼女は無意識にジャバウォックを生み、世界の綻びを加速させた。しかし、見事自身の謎を解いたアオヤマ少年に未来を託し、最後はその使命を全うしたのである。アオヤマ少年はそんな彼女の決断を尊重し、エンディング後も彼は彼女にもう一度会うために謎解きを続けていく。

 では、天気の子の陽菜ちゃんはどうだろう。彼女は『ペンギン・ハイウェイ』のお姉さんと違い、ひょんな偶然から天気の巫女の使命を負った、いわば後天的に使命を負ったヒロインである。彼女は、ホダカ少年と「晴れ女」の仕事を続けていく一方、徐々に空とつながっていく。そんな自身の身体の異変を目の当たりにしながらも、その仕事を「好きだ」という。だが、夏美さんから天気の巫女の最期を聞き、ホダカ少年から指輪をもらうことでその気持ちは揺らいでいく。いや、もしかしたらずっと揺らいでいたのかもしれない。しかし、池袋にて「晴れてほしい」というホダカの言葉を聞いた彼女は、東京の異常気象を元に戻し、翌朝姿を消してしまう。例えばこのシーン、東京の異常気象がもっとひどかったり、死者も出ていたりしたらここをラストシーンとしてペンギンハイウェイと同じ終わり方をすることもできたと思うのだ。だが、そうはいかない。なぜなら、ホダカも陽菜ちゃんもこの結末に納得できていないからである。物語とは登場人物が作るものであり、登場人物が答えを出さないまま終わることはできないのだ。ビルを越え、空の上で「私が戻ったら世界がまた狂ってしまう」という彼女、ホダカは「それでも一緒にいたい」と言い、2人は世界の形を変える。なんてセカイ系なんだ。だが、この作品は既存のセカイ系と違い後味の悪さがない。もう一度ペンギンハイウェイの結末と比べてみる。お姉さんやアオヤマと違い、使命を拒んだ2人に嫌悪感を抱くことはない。むしろこれがTrueEndと胸を張って言える。自分がペンギンハイウェイを好きだというのは、アオヤマがあの後必ず、もう一度お姉さんに会うことを確信しているからである。しかし、天気の子が池袋のところで終わったとして、ホダカ少年が再び陽菜ちゃんに会うと確信できたかというと、自分はイエスとは言えない。秒速五センチメートルを見た時と同じ気持ちで劇場を後にしていたと思う。セカイ系ではよく、最後に2人だけの世界に行ってしまうことが多い。それは現実逃避だったり、死後の世界であったりもするため、個人的にこのジャンルは好きになれない。しかし、『天気の子』はそうではなかった。「何も知らない」「知ろうともしない」自分たち以外の世界を置き去りにし、2人のために世界を変える。これは、あくまで陽菜ちゃんの使命が「天候」にとどまっていたから選べた選択でもあると思う。ペンギン・ハイウェイやアマゾンズ Season2ではそもそも世界の命運レベルなので、選べない選択だったのかもしれない。それでも、ホダカは自分のため世界を変える道を選んだ。そして、その決断は信じられる仲間を生み、「私たちは大丈夫」、とその世界で生きていく決断をする。これは今までのセカイ系とは違ったエンドであり、そういう点では、『天気の子』はある種、セカイ系というジャンルの終着点とも言えると思う。

 『「君と僕」の世界のために、現実の世界を変えても「大丈夫」なんだ、「世界に背中を向けられても」「愛にできることはまだあるんだ」』というメッセージを堂々と打ち出され、それを受け取ることができた。令和元年にこの作品が世に出たのは大きな意味があると思う。ありがとう新海誠監督、そして森見登美彦。


 歴史や民俗学が好き、アニメやゲームが好きで、多くの知識を得たい。そんな自分はいつしか本当に周りと同じ目で作品を受け取れているのか不安になっていた。

しかし、この映画を観ているときはそんな自分も肯定できた気がする。オタクと一般人のLimboをさまよう自分が救われた気がするのだ。


 本当はこの記事も、もう一度『ペンギン・ハイウェイ』をみて、『ほしのこえ』をみて事検証をし、ついでにプレステの「やるドラ」シリーズを一通り見直してから書きたかった。だが、自分のイデアがもう暴走しそうなので、勢いのまま書くことにした。もし、こんな駄文をここまで読んでくれた方がいれば、本当に感謝しかない。


 最後に、1創作者のはしくれとして。

 創作で最も大事なのは「伝えたいテーマ」である(個人の意見です) 。映画は時間が決まっていて、それが顕著に表れている。しかし、漫画は打ち切りか、完結させたくても続けざるを得ないというものが多く、ソシャゲがメインになったゲームも今や、そう言ったものとは遠ざかりつつある。漫画やゲーム以外でもそうではないかとおもう。

 結局、創作者は伝えたいテーマがあっても売上やその見込みに左右されてしまうものである。時代が悪いとは言わない。どんな時代であっても自分を貫き、言いたいことを言い、作り続けることができる人が、真の創作者なのではないかと自分はおもう。

そんな中、新海誠はそれをやったとおもう。

自分もかくありたいものである。



2019/08/09 らなん

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